34度目の誕生日に、私がタスク管理で幸せになれなかった理由について語る

なんか、毎年誕生日記事を書いていた気がしたが、全くそんなことはなく、これが2年ぶりの誕生日記事だ。というよりも2年ぶりのこのブログの更新となる。

ブログは書いてないが、文章を書くのはやっぱり好きで、最近はnoteに書いているのでよろしければ。

さて、それでは私がタスク管理で幸せになれなかった理由について語ってみる。
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COVID-19に振り回された一年

私が住んでいたミラノ周辺の街が、COVID-19で次々とロックダウンされ、侵入禁止になった。

当初はあまりに非現実的で、映画でも見ているようだった。

そしてミラノも封鎖。封鎖されるかも知れないという噂が立った夜、食料確保の為にスーパーへ行ってみたら、大量に人が押し寄せていた。

通勤先も封鎖され、家からのリモートワークに。「ラッキー」と思ったのもつかの間だった。

不要不急の外出は不可、外出時にはイタリア語の宣誓書を常に携帯する必要があり、不携帯だと最大3ヶ月の禁固刑が課せられることになった。

宣誓書の文面は数日ごとにアップデートされ、イタリア語が読めない私はちんぷんかんぷん。イタリア語が書けないので、英語で外出理由を書くが、「英語がわからない警官に捕まったらそのまま牢屋に入れられるのでないか」と不安だった。

子どもと公園にも行けない。スーパーに買い物に行くのも一人。スーパーは入場制限をしていて、外で30分待たされるのはざら。

ロックダウンは何度も延長され、一体世界はどうなってしまうのかと思った。

不安に駆られ、COVID-19関連の世界のニュースをネットに張り付き常に監視する毎日だった。

そして、3月末の最後のミラノ-日本便に飛び乗って帰国。会社の帰国承認が直前になった為、日本への引っ越し準備はする時間は無く、徹夜で家族の荷造りをして早朝の便に飛び乗った。

日本では14日間のホテルでの自主隔離。同じ毎日の繰り返し。娘も「ちゅまんない」連発。ちょうどその頃、日本が緊急事態宣言を出した頃だった。

日本帰国後、欧州の駐在員は全員帰国することになり、私は日本で仕事をすることになった。

タスク管理の正体に気付かされた一年間

私がタスク管理的なものに出会ったのが高校二年生の時だった。(当時私は、それがタスク管理であるという認識はしていなかった。)

そこからタスク管理を頑張って、どんな苦境であってもタスク管理を極めれば、道は開けると信じてきた。

そして結果だけみると、大学生の時に漠然と抱いていた「30歳で年収○万円」や「海外で仕事をする」という目標は叶えられていた。タスク管理さまさまだ。

しかし、COVID-19ですべておじゃんである。

情熱に溢れる人はここからまたタスク管理を頑張るのだろうが、私は頑張れない。

上記の目標を達成したところで、特段、幸せとは思わなかったし、タスク管理を駆使して目標達成へ向かう過程も、今思い返せば、超ハッピーというわけではなかった。

確かにタスク管理を駆使して、自分の思い通りに事が進んだ時に、「俺はやはりタスク管理の申し子だな」とハイになることは否めない。しかしハイになることと幸せであることはイコールではない。

なぜか?

タスク管理とは否認の様式だからだ。

理想の自分を掲げ、今の自分を認めない。

目標を未来に置き、今の状態を認めない。

「改善」と称して、過去に起こったことを認めず、再発を恐れ、対策を立てる。

自分を、仕組みと仕組みに行動のすべてを左右される操り人形とに分断し、不都合があれば、自分自身への非難を防ぐ為に、その仕組みを認めない。

タスク管理は否認でできている。

この否認に負の感情はない。だからタスク管理は推奨されるし、私も17年近く続けて来られた。

しかし否認は否認である。17年間、常に満たされなかったのもまた事実だ。

なぜ、タスク管理はこの様な否認の様式を取るのか?

「取るのか?」ではなく「取れるのか?」に、問いを転換してみると、それがわかる。

否認をするには、認めるか認めないかの基準が必要になる。

タスク管理には常に目的という基準がついて回る。

タスク管理には必ず目的があり、その目的を達成するために、達成するまではひたすら否認し続けなければならないのだ。

ではなぜタスク管理と目的は不可分なのか?

それはタスク管理がビジネスから生まれた手法であり、もっと言えば、ものを本質存在と事実存在とに分ける、イデア論的思想から発明されたものだからだ。

イデア論的思想からタスク管理を説明すればこうなるだろう。

“ものごとにはそれが本来あるべき完全な姿がある。それがタスク管理の目的である。目的に到達するまで、それは本来あるべき完全な姿ではない。だから認めるわけにはいかず、否認という教育的指導によって、不完全なものを本来あるべき完全な姿に導いてあげる。それがタスク管理だ。”

しかし忘れてはいけないのは、イデア論的思想は絶対的真理ではない。思想の一つでしかない。

若い時分に7つの習慣やToBe/AsIs、SMARTにハマった自分は、そんなところまで考えが及ばなかった。「まずはあるべき姿を立てる」ことが絶対真理だった。

視野狭窄とはまさにこのことである。

現代社会があまりにもイデア論的思想に染まっているので、今回のような天変地異が起こるまで全く気が付かなかった。疑いもしなかった。

本当に世界(自分)にはあるべき姿があり、そこに辿り着くまで、否認を原動力に突き進まなければならないのか?

そこには本当に辿り着けるか?

辿り着いたとしても、その地点で新たなあるべき姿が現れ、永久に終わりがないのではないか?

まるで、「民衆のためのプラトン主義」とニーチェが称した、天国に救いがあると教えるキリスト教のようではないか。

もうたくさんだ。私は今、幸せになりたい。

だから自分を本質存在と事実存在とに分けることをやめた。

未来、または抽象としてのあるべき姿などなく、あるとすれば、今ここに事実として存在している私があるべき姿である。

今、唯一の事実として存在している私を、理想や未来のための不完全な比較要素として、理想や未来に従属させるのではなく、全力で肯定、承認する。

理想と今、未来と今、過去と今、仕組みと仕組みに操作される自分、タスク管理する自分とタスク管理される自分。

自分を二分しなければ、否認する対象は生まれない。そこには承認のみが残る。

いまこそ、すべてはよいのだ。

そこには、人生の失敗も成功もない。

すべてはよいのだから、34歳の目標というものも存在しない。

自分を二分し、理想や未来を固定し、否認の首輪を課せられ、理想や未来に首輪を引っ張られ続ける一年ではなく、内から生まれ出る意欲のままに、承認の充足感に満ちながら、一年を過ごすのみである。

タスク管理は、(イデア論的思想に染まった)社会的成功には有効かも知れないが、幸せには直結しない。

幸せに直結するタスク管理こそが私の目指している至高のタスク管理であり、もう少しでそこに手が届きそう。そんな34歳になった。
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