目を背けてはならない根源的な問い
7月下旬に放送大学の前期受講科目の単位認定試験があった。4科目の試験を受け、単位は取得できた。しかし、GW後から勉強していなかったことがたたり、1科目につき2日間で8回分の講義とテキストに目を通し、そのままWebテストを受験する一夜漬けスタイルで挑むことになった。
前期が始まるまでは「単位のために勉強するのではない。勉強したいからするだけだ。」と思っていたにも関わらず、この体たらく。とんだ笑い話だ。まぁ計画ベースではなく、現実ベースで生きていたら、こんなものだろう。問題は、その後だった。
試験が終わった次の日からずっと、心に引っかかりを感じたままだった。
「なんとなく、生活にハリがない気がする。。」
単位認定試験前の1週間は、起きている時間はすべて勉強にあてていた。より厳密に言えば「単位を落としたくない」という恐れに、起きている時間をすべて勉強にあて”させられ”ていたという表現の方が正しい。
こうやって外的要因に突き動かされる状態は、個人的に望ましくない。応用情報技術者試験やPythonの勉強など、比較的、内的比率の高い動機からやりたいことはあった。しかし試験勉強のときと比べ、外的動機がなくなった試験後は明らかに、一日の内でそれらにあてる時間の比率は下がっていた。
そこで締め切りがある目標を設定すれぱ、恐れから能率を上げることもできただろう。「他者に締め切りを宣言する」という別の小手先の方法もある。しかしどちらにしろ、締め切りを自分で設定するにしろ、他者に設定してもらうにしろ、締め切りを破る恐れで自分を駆動させることになる。
そういう、恐れや不安で彩られた道からは足を洗っていることに加え、人間を入出力装置のように扱う一部の心理学的アプローチで全体として複雑な人間存在を覆い隠す――エサを犬の頭上に持って行くことで、目線が上がる結果、お尻が下がり座った状態になった犬を「ほら!おすわりできるでしょ!?」と無邪気に紹介するような――これまで私自身も十数年試みた欺瞞的手法ではなく、人間存在の複雑性から目を背けず、それを土台にした(どちらかというと)哲学的アプローチでパフォーマンス最大化を図りたい私の信条から、上記の方向性は選択肢になり得ない。
「恐れや不安がない状態であれば、パフォーマンスは最大になる」という自分が立てた仮説が揺らいでいる状態は気持ちのいいものではなかったが、他に採る手段もなかったため、様子を見る意味で、そのままの状態で時を過ごした。
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