​[i]誕生日は祝わない~誕生日に関する諸考察~

「なぜ誕生日を祝うのか?」

年を取るということは、1年という人間が作った暦が一回りしただけに過ぎず、それ自体には何の価値もありません。

誕生日は他の364日と等しくかけがえのない価値を持った1日であり、特別祝う必要性はないのではないかと考えます。

ということで、Facebookから「今日は○○さんの誕生日です!」という通知が来る度に、「だからどうしたと言うのか」と思い、おたおめコメントもしません。

しかし、誕生日の人のFacebookのコメント欄に「おめでとー」とたくさん付いているのを見て、「やっぱ、自分はどっか変わってるのかなー」なんて思ったりしていました。

(念のため断りを入れておきますが、「おめでとー」と言われたら素直に嬉しいです。だけど、その嬉しさはこんな私を気にかけてくれていることに対する嬉しさであって、誕生日だから嬉しいというわけではありません。

「自分が嬉しいと思ってるなら他の人にもそうするべきだろ」とも思いますが、そこはひねくれてるので、「いや、やっぱりなんかおかしいんじゃないか?」と思い、自分からはできないのです。

でもしばらく連絡してなかった人に、誕生日というキッカケを使って連絡するというのはやっていますし、誕生日はそういうことをするのに良いキッカケとも思います。)

「その人が誕生日を迎えたことを祝う」という行為は、「その人がその日まで生きることができて良かったね。幸運だね。」という印象を受けます。

これは、その人が子どもであれば、受け入れられます。子どもは、ケガや病気であっけなく命を落としてしまう可能性があるので、年を重ねられたこと自体が幸運とも言えるでしょう。

しかし、社会に出た大人が1年無事に過ごすことは幸運でもなんでもありません。むしろ、その人の自発的努力で1年を無事に過ごせるようにしたのが実際のところでしょう。それを「運が良かったね」みたいに済ませるのは、どうなのでしょうか。

「おめでとー」じゃなくて、「自分で自分のことを生かすことができて、素晴らしいね」の方が適切かと思います。

毎年そんなモヤモヤを抱えながら日本で過ごしていたのですが、スイスに来て、スイスの誕生日の慣習を知ってそのモヤモヤが晴れました。

スイスでは、自分の誕生日に周りの人にプレゼントを配ります。自分が祝われるのではなく、周りに感謝をする。

「これだ!」と思いました。

大人になったら滅多に死ぬことはないので、自分が年を重ねることは前述の通り、幸運でもなんでもありません。まさか「1年間、交通事故で死なないなんてアナタは運がいいね。おめでとー。」なんて誰も言わないでしょう。

しかし、年を重ねた日、すなわち誕生日時点でのその人の人格は、周りの人によって形成されたことは間違いありません。

周りの人の言動のおかげで、今の自分自身がいるのです。

これは感謝せずにはいられません。

なぜなら今の自分が常に最高だからです。

寝坊で留年して就活の年がリーマンショックと重なっても、海外赴任して精神がちょっとおかしくなっても、最高です。

毎日改善を続けていれば、最新の改善が施された今日の自分が最高であることは必然です。

今日誕生日だったわたしは、こんな最高の自分を形成して頂いたみなさまに感謝いたします。

ありがとうございます。

これからもみなさまからの影響を受けつつ、日々改善を繰り返し、最善の人生を送っていきたいと思います。

色々書きましたが、親が何歳になっても子どもの誕生日を祝うのは自然なことだと思います。自分も子どもが生まれて実感しましたが、親は子どもが生きていてくれているだけで幸せで感謝です。

私自身も親からお祝いのメッセージを貰うと、「私を無条件で愛してくれている人がいる」と思えて、幸せです。(もちろん妻も無条件で愛してくれていると思いますが)

誕生日において、親と子の関係だけは特別なのです。

スポンサーリンク
レクタングル大

役に立つと思われたらシェアをお願いします。
また、何かご質問があれば、Twitterで喜んでお答えします♪

定期購読いただくと、わたしのやる気が100倍になります!

スポンサーリンク
レクタングル大